嫌な、夢を観たんだ。
自分からは決して出られない部屋の中で、僕は虚しい残り香と汗にまみれてた。
ちゃんと洗い流した筈なのに、気持ち悪くて吐き気がする。
さっきまで手にしていた愉しさも温もりも嘘みたいで、呆然と取り残されてた。
だけど、どこかでそれが毎度お決まりのエンドロールを観ているかのよう、
妙に納得してしまっている自分もいて、果てしなく滑稽だった。
僕はまた一人ぼっちに戻って、次の訪問者を待っている。
次にドアが開くときは、また趣味の悪いお芝居が始まるのだ。
そう解っているのに、僕の口は空々しい台詞を吐くのを止めない。
”何故って?”
理由なんて影のようなもの、追いかけたら切りがないのも解ってる。
”何の為に?”
その答で全て壊れるなら言わない。
そうだね、
理由は聞かないルールにしよう。
繰り返される…
刹那の快楽
絶望と焦燥
さっきから、
頭が…割れるように痛い…
・・・・・・・・
『…キさ…、イッ…さん』
なんだろう。
『イッキさん…!』
誰かが呼んでいる。
この声は…
ふっと体が軽くなって目を開けた。
真っ暗、だ。
肌になじむブランケットの感触も、部屋のにおいも変わらずそこにあるのに掴めない。
呼吸を整えようとするだけで精一杯だった。
「…ゆ……め…、か」
呟いたつもりが、口の中がからからに乾いて言葉にならなかった。
ベッドサイドのランプがついて、ぼんやりとオレンジ色の明かりが灯る。
と同時に、目に入ったのは心配そうに僕を見下ろす彼女の顔。
だけど僕の視界はまだピントが合わない。
『…大丈夫、ですか?…すごいうなされてて…』
「…ん、へ…き」
掠れたように言葉の出ない僕の様子を見て、
ベッドから降りた彼女がぱたぱたとキッチンへと走っていった。
空を見ると、眠る直前に見た月の位置がまだ窓枠に収まっている。
寝付いてからそんなに時間は経っていないみたいだ。
のろのろと起き上がる。
背中にびっしょりと汗をかいているようで、まとわりつく不快な質感を早く脱ぎ捨てようと
湿ったシャツのボタンに手をかけた。
『イッキさん、とにかくお水、飲んで下さい…』
彼女が持って来た冷たい水の入ったグラスを受け取ると、ほとんど一口で飲み干す。
喉を鳴らして水分を取り込む僕を、彼女は神妙な面持ちで見つめていた。
ゆっくりと深呼吸をすると、やっと現実に戻って来れたかのようで、安堵が体のすみずみまで行き渡る。
一呼吸おいて彼女に向き直ると、
「…ごめん、起こしちゃったよね。大丈夫だから。」
やっと我に返ったように謝るけど。
彼女の表情は曇ったまま、”大丈夫”の言葉は信じて貰えないらしい。
ああ…困ったな、と僕は思う。
『そんな事…いいんです、それより…そのままだと、風邪をひきますから』
彼女は枕元に掛けてあったピンク色のカーディガンを手に取る。
そして僕の裸のままの上半身にそっとかけてくれた。
彼女のサイズでは小さくて肩くらいしか隠せないけど、じんわりと温かくて、嬉しくて。
思わず無言で抱き寄せる。
僕の中にすっぽりと収まり、肩に頭を寄せる彼女の重さが心地よい。
ただ、いつもなら少し緊張が伝わってくる彼女の身体が、今は柔らかく包み込むような優しさに溢れていて
不覚にも涙が出そうになってしまった。
本当に僕を心配しているのが伝わってくるから。
彼女の髪に顔をうずめ、聞こえるか聞こえないかくらいの声で呟く。
「…悪い、夢を見たんだ。」
その言葉は真夜中の静寂に、ぽとりと落ちた。
『イッキさん…、今日…何かあったんですよね』
「…え、」
背中越しに聞こえる声に思わず戸惑う。
『帰って来た時から、少し様子が変だなって思ってたんです。でも聞くタイミングがなくて……あの、良かったら今、話してもらえませんか?私には聞くくらいしか出来ませんが…』
少し驚いた。
隠せていたと思っていたのに。
でもなんだろう、意外と嬉しいかも知れない。
僕は彼女に見えないのをいいことに情けなくも眉を下げた。
ただ、どう話していいのかわからず躊躇う。
彼女に余計な心配をさせないような話し方を探すけれど。
それでもやっぱり悲しい顔はさせてしまうかも知れない。
僕は。
彼女と付き合いだしてから、FCとはなるべく関わらないようにしていた。
それにリカの尽力もある。
いきなりは無理かもしれないけれど、時間をかければ女の子達にも諦めてもらえる日がくるんじゃないかなんて、
甘い見通しを立てていたのは確かだ。
彼女との幸せな日々に浮かれ過ぎていたかもしれない。
学校の帰り、いきなり目の前に表れた人物の顔を僕はすぐに思い出せなかった。
ミサちゃんだっけ、ミカちゃん、だったかな…
確か元々はFCに入っていた子だ。
そして以前、僕と三ヶ月、恋人の関係になった子。
関係を解消してからは姿を見せなくなったけど、その事について深く考えたりはしなかった。
間を空けずに次の恋人ができていたし、別れた後に情を見せるような事はしないと決めていたからだ。
繰り返されていたサイクルの一部分。
今となってはそんな認識でしかなくなってしまった過去の恋愛。
目の前にいるこの女の子と僕はどんな付き合いをしたのか、記憶の網をたぐりよせ思い出そうとする。
「イッキ先輩が、本命の彼女と付き合い始めたって聞きました…ホントですか?イッキ先輩言ってましたよね、
誰にも本気にならないって…」
「どうして…私じゃダメだったんですか…?私と本命の人と、どこが違うっていうんですか?!」
思い詰めたような顔で、今にも泣き出しそうな顔で。
突きつけられる台詞。
一言じゃ片付けられない問いだ。
いや、今となってはシンプルな答えになるのかも知れない。
”だって、君は「彼女」じゃないから”
その言葉が浮かんだ瞬間、心がずどんと重くなって僕は知る。
人から傷つけられる事より、傷つける事の方がずっとずっと辛くて痛いんだって。
あの時からずっと解っていた。
気付かない振りをしてたけど、本当は解ってた。
それでも。
お互いが合理的に満足出来ればそれでいいなんて理由を付けて逃げていた。
そしてその過去を変える事など出来ないのだ。
即席の恋。
即興の愛。
空虚な穴を、また形の違う空虚で埋めるような。
そんな代償行為の根底にあったのは紛れもない、自分自身の弱さだ。
寂しさを満たした気になって、傷が深くなっている事にも気付かなかった。
「…ごめん、本当に。」
僕から出てきたのは、そんなありきたりの、何の色も誠意もない台詞。
少なくとも相手はそんな言葉など望んでなんかないだろう。
でもそれしか言えなかった。出て来なかった。
固まったように動かない僕を見て、慌てたように女の子は、
「すみません…今の彼女さんと別れて欲しいとかじゃないんです。どうしても…
聞きたかっただけで…もう気が済みましたから。」
そう告げて去っていく。
僕は呆然と立ち尽くしたまま、しばらく動く事が出来ずにいた。
心を閉ざしたまま女の子達と付き合って、別れて。
僕が一方的に切り捨ててきたものたち。
その中にはまだ泣き続けてる子もいるかも知れない。
さっきの女の子のように。
僕がしてきたのはそういう事なんだ。
人間の心など、簡単に完全に割り切る事ができればどれだけ楽か。
でもそんなことは始めから、お互いに無理だったのだ。
彼女に出会い、本気で愛し、強くならなければと思った。
目の力に負けないと決めた。
彼女がいるから強くなれる。
甘んじて絶望を受け入れるのではなく、抗う意味を教えてくれるのは彼女の存在があるから。
でも…、僕が過去にしてきた事は消せないし、彼女を傷つけた事実も消えない。
本気で人を愛して初めて気付くのは、過去の自分が犯した過ちの重さ。
自業自得だとわかってはいても、それは僕の心に影を落とす。
「…本当は僕の中で留めておかなきゃいけない事なのに…ごめん。また君に甘えちゃったな。」
はぁ、と溜め息をついた。
『いつか…言ってましたよね、私と居ると”すーっと気持ちが軽くなる”って。…イッキさんが辛いと私も辛いです。だから…』
「情けない男、って呆れないんだね…。」
そう言って彼女の髪を撫でる。
僕の過去について、全てを肯定することも、非難する訳でもなく、黙って話を聞いてくれる。
そんな姿勢が有り難かった。
『イッキさんが後悔の念で苦しい時があっても、私、ずっと隣にいます。ひとりで持てないものも二人なら持てるかも知れない、それに……』
そして僕の手をギュっと握る。
「…うん?」
『私…、一緒に暮らし始めてから、イッキさんのこと前よりもわかるようになったんですよ?
だから何か隠れて悩んだりしても無駄ですからね?』
そう言って照れ笑いのように微笑む。
眠れない夜に飲む温かいミルクのように僕を包み込む優しさ。
「あぁ…君は本当に…」
その続きは言葉にならず、ただ僕は抱きしめる腕に力を込めた。
そう、僕が何よりも大切にしていきたいのは彼女の笑顔なんだ。
願いが叶ったあの日から。
この目に映るものはどこか濁って見えていた。
モノクロの世界でしか生きられなかった僕に、
彼女は鮮やかな人生を与えてくれた。
だから。
真実の愛と引き換えに、彼女を失う怖さを手にしても、僕は逃げずに全てを背負おう。
二度と、夢で見たあの部屋のような世界には戻らない。
それに僕は、もう独りじゃない。
隣を歩いてくれる彼女がいる。
決して失いたくない存在。
「…愛してるよ」
静かに絡められる指。
その柔らかな手を一瞬たりとも離したりしないと誓いながら。
僕はもう一度、その唇におやすみのキスを落とすのだ。
update/2012706
<後書き>弱気なイッキさん。情けないトコも好き!