パチン、という音がして私は読んでいた本から顔を上げる。
カリカリと走るペンシルだとか、ページがめくられる微かな音によって秩序を保っていたかのような世界は崩れ、
グラスに滲んだ水滴が我に返ったように滑り落ちた。
『どうしたの？』
合掌のポーズのまま固まっているのは、机に向かって厚い参考書と静かに格闘していたはずのシン。
声をかけると同じタイミングで、ふう、と息を吐きながら開かれた手のひらを覗き込む。
「血、吸われてないみたいだな。」
夕暮れの涼しい風を取り込む為に開けた窓、網戸の隙間から迷い込んできたのは羽の生えた吸血鬼だったらしい。
昔よりも耐性を付けたこの虫は、年がら年中飛んでいるから、もう夏の風物詩とは言えないかも知れない。
シンの手の中で息絶えたそれは、ティッシュにくるまれゴミ箱の中へと葬られた。
潰れた残骸から赤い血が見られなかったところ無事だったようだけど、それでも何となく、むずがゆいような錯覚を覚えてしまうのはどうしてだろう。
腕をさすりながら、ふと窓の外を眺める。
季節は、夕日の沈み方ひとつ取っても確かにその移ろいを示していて、もう夏は終わってしまったのだとしんみり思った。
（いい匂い…）
カーテンが揺れる度に蚊取り線香の残り香が鼻先をかすめて、ふいに甦ったのは懐かしい思い出。
『ねぇ…そういえばさ、シンは昔っから刺されやすかったよね。』
小さい頃、公園で遊んだ後は、みんな手足いっぱいにぷっくりと腫れた虫さされを付けて帰ったものだった。
その中でも、一番たくさん刺されていたのはシンだった事を覚えている。
掻いちゃダメと言われてもかゆみに耐えられるはずもなく、かきむしって余計腫れた跡にしみる薬に涙をこらえる小さな横顔が可愛らしかった。
そんな、遠いようでまるで昨日の事にも思える記憶。
一度なくしてしまった物だから、余計に愛おしく感じる。
そして再びこうやってシンと共有できるのが嬉しくて、気が付くとつい昔話をしてしまうのだ。
それでも、呆れた顔をしながら何だかんだ付き合ってくれるのはシンの優しさなんだと思う。
なんだか嬉しくて可笑しくて、ふふ、と笑みがもれてしまった。
「何笑ってんの、お前がやられなすぎなんだよ…俺と同じ血液型の癖に。」
同じ光景を思い出していたのだろう、再生される忌々しい記憶に、シンはしかめ面を作っている。
「お前の血、よっぽど不味いんじゃないの」
憎まれ口はシンなりのコミュニケーションだとわかってるけど、やっぱり反応してしまう私も単純すぎるのかも知れない。
それにどんな反応であろうと、構ってもらえると忠犬よろしくしっぽを振ってしまうのも事実で。
…やっぱり私は単純だ。
読んでいた本のしおり紐を玩びながら、ちょっと拗ねた態度をとってみても、心の中ではやっとシンがこちらを向いてくれたという喜びで、顔が緩まないよう気を付けるのに精一杯だった。
『不味くないもん、私の血はきっと甘いもん』
「菓子ばっか食ってるからだろ、てか最近太ったんじゃねーの？」
思わぬ角度から、気にしていた事を指摘され内心ギクリと震える。
いくら何でも、体重の話題についてなんてシンとは語り合いたくない。
『なっ…体重変わってない！ていうか！、私だって普通に刺されるよ！こないだだって、く…』
話を戻そうとしたは良いが、自分が何を口走ったかに気付いて、次に続く言葉を寸での所で飲み込んだ私は、首元に手を当てた不自然なポーズで固まってしまう。
よくよく考えれば、ここで何食わぬ顔をして言いきっていれば何の問題もなかったのだ。
…が、しかし。
（うわ…変な間が…）
「？…何いきなり赤くなってんの？」
明らかに怪しい私の様子をじぃっと見つめながら、シンは参考書をパタリと閉じてゆっくりと立ち上がりかけた。
変な汗が出そうになるのと、どう説明しようかと突発の脳内会議が始まって私の方は軽くパニックになる。
ところが思い直したように、座りなおすとそっぽを向くように視線はそらされ。
「ま、言いたくないなら別に、いいけど。」
なんてぶっきらぼうに突き放すのだ。
そんな態度を取られると、どうしても釈明しなくてはいけないように感じてしまうのに。
きっとシンもそれを知ってて、そういう作戦をとっているに違いない。
私だってわかってる、わかってるけど……
『ち、違うの！、こないだね、首の所に刺されちゃってね、ミネが勘違いしちゃって、その、えっと。
キ…キスマーク、だって思われちゃって！ありえないよね、ほんともう、あはは…。』
言ってしまった。だって嘘なんて吐ける訳ない。
何も見てないようで、実はしっかりと観察しているのがシンの侮れない所なのだ。
下手なごまかしは通用しないと知っている。
「……へぇ。」
だけど……それきり何も言わないシンの視線が痛い。
（あー…）
その日、バイトに遅れそうだった私は、全力疾走でロッカールームに駆け込んだ。
ギリギリで遅刻は免れたものの、汗でへばりついた髪を急いでツインテールにしてフロアに出たおかげで、耳の下辺りにあった虫さされの跡が目立ってしまったのは、積み重ねた不運の集大成だったとしか言いようが無い。
目敏いミネが、目を丸くしながら駆け寄ってきて、
「先輩～、キスマークなんて付けて接客しちゃダメじゃないですかぁ～！」
なんて叫ぶから水を打ったように静まり返る店内。
呆気にとられた私が、事の重大さを理解するのに何秒か掛かって。
もちろん大慌てで否定したのだけれど、耳まで真っ赤になってしまった単純すぎる反応は余計に事態を混乱させた訳で。
フロア中の視線を集めてしまった私はその後ミネと一緒に、店長からこっぴどく怒られたのだった。
身に覚えの無い事が原因で怒られるのは、少々心外ではあったけど、過剰反応してしまった自分にも非が無いとは言えない。
おかげでその日は普段しないようなミスも連発してしまったし、散々な一日だった。
ドミノ倒しのように次々降り掛かる苦難に、その日はベッドに入るまで気が抜けなかったほど。
もう、思い出すだけで肩が重くなる。
それに…
「なんだぁ～、違うんですか～？先輩も少しは大胆になったかと思ったのに！」
帰り際こっそりとミネが放った、とどめの一言は、痛い所にグサリと刺さったまま抜けないでいた。
あの日、私の星の運勢は最下位だったに違いない。
『で！でも大丈夫！とにかく誤解は解けてるから！』
胸の前で両手を開いて、セーフのポーズを取りながら必死に訴える。
うっかり口を滑らした自分が原因とはいえ、シンにまで釈明しなくてはいけなくなってしまったこの状況。
大げさなジェスチャーで自分を誤魔化せるわけもない。
最初から最後まで、情けなくて恥ずかしくて、思わず目を伏せた。
シンにだけは知られたくなかったのに…。
それは単に格好悪いエピソードだから、という理由だけではない。
ただでさえ隙を見つけては唇を奪いにくるような強引すぎるやり方が、返事を待たず次のステップに進む事を怖れている今、”キスマーク”なんてフレーズを自分の口から発するなんて危険すぎるから。
ただキスされるだけでも、頭は真っ白になるし、変な所には力が入るし、とにかくパニックなのだ。
そもそも、キスマークを付けるという行為が、恋人達が踏むステップのどの段階に位置しているのかさえ見当もつかない。
これ以上距離を詰められたら、逃げよう。と身体を固くした矢先だった。
「お前、キスマークの付け方知ってんの？」
『…へ？』
降ってきたのは予想外の問いで、私は大きく瞬きをした。
と同時に、あまりにも間抜けな声が出てしまって恥ずかしくなる。
「ま、お前みたいなお子様はキスマークのやり方なんて知るわけないよな。」
腕を組みながら挑発的な笑みを浮かべる目の前の男を、私は軽く睨んだ。
（…なにそれ！）
たまにシンは年下のクセして余裕ぶったりするのだけど、その度同じレベルで子供っぽい私は一々反応してしまい結局言い合いになる。
確かに言い返せないくらい正論な時の方が多い事は、悔しくも認めざるを得ないんだけど。
『…知ってます。私、いちおうシンより年上なんだからね！』
いつものように、間髪入れず打ち返したのは条件反射でしかなくて。
お決まりのルーティンに我ながらため息しか出ない。
知っていると言ったのは嘘ではなかったけど、あくまで知識として、という意味でありそれ以上でも以下でもないのに。
その真意は伝わる訳も無く、ただにやりと口角を上げたシンを見て、しまったと思った時にはもう遅かった。
まさに、飛んで火に入る何とやら。
「ふーん、じゃあやってみてよ。俺にキスマーク、付けてみて」
（え、？？）
目が点になる。単純明快な言葉のはずなのに、いくら頭の中で繰り返してみても咀嚼できる気配がない。
だって、あまりにも意外すぎるから。
いつだって私の立ち位置は受け身であって、後ずさる事はあっても一歩踏み出すなんて事は簡単に出来ることじゃない。
それをシンだって、十分すぎるくらいわかってるはず。
『な……、むっ無理…！！』
首をぶんぶん振りながらじりじり後ずさる私と、顔色一つ変えずにそんな言葉を投げるシン。どちらが優位に立っているかは歴然で。
背中に当たるソファの弾力が私に早々と降参を促す。
「…ホントは知らないとか？…じゃぁ、教えてやるよ」
いつもより回り道の展開に戸惑うも、最後に行き着く結末はもう判りきっている。
だからこそシンが一歩を踏み出すと同時に、心臓を掴まれたかのよう急に息がうまく吸えなくなってしまうのも、体に刻みこまれた反応なのであって。
『ちょ…ま、待って』
せめて距離がゼロになるそれまでの僅かな時間、必死に呼吸を整えようと試みても。
「あのさ、そう言われて俺が素直に待つと思う？」
真剣な瞳を正面から受け取れば、また心はかき乱されてしまうのだ。
ずっと見てきた、知ってる筈の知らない顔。
でもそれだって、間違いなくシンの一部なのであり、目を背け続けているのは卑怯なのだと胸の奥で疼く痛みが気付かせる。
……違う、とうの昔に気付いてた。
（だからって、じゃあどうすればいいの？）
私だってキス自体が嫌な訳じゃない。
いつまでたっても一歩を踏み出せない自分自身に本当は嫌気がさしている。
いくら年上ぶっても、甘えてばかりいるのは自分の方で。
こんなんじゃ、いつか見放されてしまうんじゃないかって…
『、待って…ってば！』
私は覚悟を決めた。
唇へのキスと比べたらきっと、なんて事無いんだ、と呪文のように繰り返しながら近づく。
シンの匂いがふわりと香って、目眩がしそうになったけれど。
シャツの首元辺りを引っぱって、服を着ていれば見えないだろう位置に必死で唇を押し付けた。
ちょうどそこは左胸の心臓の上で、脈打つ音がやたらと近い。
そのまま、少しだけ力を入れて吸うと、自分の身体がかぁっと熱くなるのがわかって。
なんて大胆な事をしてしまったんだろうと、頭の片隅で今更ながらに後悔する声が聞こえては消えた。
何秒そうしていたのかわからない。
『…はい！出来たでしょ！』
照れ隠しに、わざとらしく顔を背けながらシンの胸を押し返す。
そして横目でその一点を凝視してみたのだけど、期待していた程の変化は無くて、ちょっと脱力。
大体こんな試み自体、初めてなんだから最初から上手くいくはずもないのだけど。
（あ、れ…？）
よく見ると、確かに僅かながら痕のようなものは付いている。
でもぼんやりと色がついたのも一瞬で、あっという間に拡散して消えてしまった。
名残惜しい気持ちでその痕を追うと、目に入ったのはシンの顔。
「マジでやるとは思わなかったんだけど……つか下手すぎ。」
『…っ！シンに言われたくない！』
言いながら、赤くなっているシンの表情に、余計恥ずかしくなってしまった私は、思い切り目を逸らしながら投げつけた。
一矢報いたような気になれたのは一瞬だけだった。
けれど、自分が口走ってしまった言葉の重みを知るより先に、一瞬で詰められた距離はいつもより頭一つぶん下で。
『やっ…！…ん…』
ひやりとした感触に息を呑んだ途端、胸の谷間にチクリと走った痛みは電流のように走り抜けて、思わず零れた掠れ声は紛れも無く自分のもの。
拒否する時間も与えられず、身動きすらまま成らなかった私は、シンの唇が離れていくのをただぼぉっと見つめるしか出来なかった。
そして、血管が透ける程に薄い皮膚の上、残っていたのは。
赤い、赤い、しるし。
…なんだろう。
キスだって特別だけど、もっと特別なものを手に入れたような気がする。
そっと触れてみると、胸がいっぱいになって、でもどんな顔をしたらいいのかわからなくて。
でも下を向いたままの私に落ちてきた言葉が、誰からのものかなんて、見なくたってわかってる。
「…お前がオレのだって印、付いたから。」
膨らんだカーテンが連れてきた初秋の風が、上昇した体温には心地よくて。
だけど響いた言葉は、なかなか私の身体をクールダウンしてくれそうにない。
そして目の前で、一つ年下の男は前髪を揺らして笑う。
update/2012923
＜後書き＞KENTさんの誕生日なのに空気を読まず投下！残暑が終わらないうちに！…しかしもう涼しいな〜