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〜彼の熱〜

 

困った。大事な講義だというのに全く内容が入って来ない。教授の声が念仏の様に通り過ぎてゆく。
木漏れ日の落ちる午後一の講義だ。
レポート発表を控えた者だけが緊張感を漂わせ、それ以外の者は睡魔と戦っている。
前者のグループに含まれているはずのイッキは、一見すれば必死に段取りの最終確認をしている他の者達と変わらない。

しかし目下、彼の頭の中を支配しているのは、一人家に残してきた彼女の事だった。
無謀にもふらつく身体で外へ出ようとしていた彼女をどうにか休ませたのはいいが、心配で仕方ない。
そろそろ、本格的に寒くなってくる季節だ。どこかで流行りの風邪を貰ってしまったのかも知れない。

朝触った時はそれほど高くはなかったが、今頃高熱で苦しんでいる可能性だってある。
さっきから追ってくる悪い想像を振り払いながら、目の前に並ぶ文字の羅列に集中しようと試みてはいたが、無駄な徒労に終わっていた。
出来ればすぐにでも飛んで帰りたいが、このレポート発表をすっぽかしてしまったら、確実に単位に響くだろうし、それを知れば彼女は責任を感じてしまうだろう。
心の葛藤に揺れている間にも、発表の順番は確実に迫っている。

メールを送って状況を把握したいが、眠っているであろう彼女を起こしてしまうのも可哀想だし…などと、おあずけを食らった犬の様に、そわそわと落ち着かず考えを巡らす。
意味も無くテキストに目を走らせる振りをしながらも、意識は家の方角へと向かっていた。

結局、心ここに有らずなまま自分の発表を終わらせると、誰よりも早く教室を飛び出す。
教授の声が背中にぶつかったような気がしたが、確かめる時間など割いていられなかった。

体調の悪い時でも食べられるものを買って帰らなくては。
そう思って立ち寄ったスーパーの買い物袋には、沢山のフルーツ、薬局で買った薬に栄養ドリンク。
玄関のドアを静かに開け、出来るだけ音を立てない様に重い袋を下ろす。
シン、とした廊下は無人の家かのようで、こみ上げる不安を払いのける様に靴を脱ぎ捨てた。
とにかく、彼女の顔を一目見ないと安心出来なくてそっと寝室を覗いてみる。
西日を遮るカーテンは半分ほど開かれ、オレンジ色に染まる部屋の中、首元まですっぽりとブランケットに覆われ、すやすやと眠る彼女は一見いつもと変わらない様子で。
悪い想像が現実になってない事を確認して、ホッと胸をなで下ろした。

「……、」
小さく彼女の名前を呼んでみるけど。
「……」
起こしてしまうにはまだ早いから。
それでも我慢出来ずに、そっと触れたおでこから伝わる熱が、イッキに自分の使命を思い出させる。

キッチンへお米をといで、炊飯ジャーにセットオン。おかゆのボタンを押せば、一時間後には出来上がるだろう。
りんごを洗いながら、ウサギの形に皮を剥くやり方を思い出す。
冥土の羊では基本的にウエイターだが、以前にヘルプでキッチンに入った際、ワカさんに教えてもらったのだ。
慎重に皮を切り取りながら、自分の顔が緩んでいるのに気付いてハッとする。
いつもはどちらかといえば、手際の良い彼女のお世話になりっぱなしな訳で。
彼女を看病する事など初めてだから、不謹慎だけど…少し嬉しいなんて感じてしまっているのは否めない。

綺麗にウサギの耳の形に揃えられたリンゴを飲み物と一緒にトレイに乗せ、寝室に運ぶ。
枕元には朝、薬を飲む時に渡したコップが空っぽになって置いてあった。
トレイを置くのに邪魔だったので、下げようと伸ばした手が、つるりと滑って大きな音を立てる。
まずいと思った時にはフローリングの硬い床に落ちてしまった後で、ピクリと彼女の睫が震えた。
ベッド脇のスツールはそれほど高くない為、ガラスのコップでも割れずに済んでいたが、ゆっくりと彼女の目が開かれる。

ああ、起こしてしまった…

 

『…ん……ぁ、イッキ…さん…?』
「ごめん、ちゃんと優しく起こそうと思ってたのに…」
彼女の柔らかな前髪を指で梳きながら僕は謝る。

『…お帰りなさい、イッキさん…』
彼女は僕の指を、小さな手で握りしめながら、無邪気に頬へと擦り寄せた。冷たいから気持ちいいんだろう。
なんだか猫みたいで可愛い。

「具合は…どう?」
『ぁ、さっき起きた時よりは…』
「そっか、今は薬が効いてるのかな。でもちゃんと治さないとね?…そうだ、リンゴ切ってきたから、食べて?」
ゆっくりと起き上がりかけていた彼女の動作が止まる。
『え…これイッキさんが…?』
驚くのは予想していた。
料理なんて、食べられればいい位にしか思っていないような僕の行動としては、相当にイレギュラーだろうから。
けど、あまりにも彼女が黙りこくっているから、不安になってきた。
どうしよう、もしかして気持ち悪いって思われたんだろうか。

「…どうしたの?」
恐る恐る尋ねると、じぃっとリンゴを見つめていた彼女は、杞憂を打ち消すに余り有る位、はにかんだような笑顔で返す。
『あっ、あの…こうゆうの…自分の為に作ってもらった事、記憶に無くて…なんかジーンとしちゃって』

そうだった。家庭の事情もあって、あまり親に甘えた経験がないのだろう。
思えば、無理をするのが当たり前のように生きてきた彼女は、我が儘らしい事を言わない。
静かな家の中、一人ベッドで誰かを待つ幼い日の彼女を想像して、僕はギュッと胸が締めつけられた。
だから、何も言わずに彼女を抱きしめ……ようとして、ふと違和感に気付く。

「ん…、あれ?君、どうして…」

僕のシャツを着てるの…?、という言葉は口に出さなくても目線の先だけで伝わったようで。

それに気付いた彼女は、すごい勢いでブランケットを口元まで引き上げた。風邪引き中の身なのにすごい瞬発力だ。

『!!!…ぁ、えっ……と』
身体を硬くして目を泳がせる。半分しか見えていないけど、顔が真っ赤だ。
熱のせいだけじゃない、おでこに”超恥ずかしい!”と書いてある。

『えっと…えっと…ぁ!それより…講義…、大事って言ってた…!』
あからさまに話題をすり変えて誤魔化そうとする、その健気な可愛さに免じて、少しだけ騙されてあげよう。
心の中で苦笑しながら、僕は答える。

「うん、レポート発表ね。無事終わったよ、…まぁ大分うわの空だったけどね」
『…?』
「君の事が心配で、とてもそれどころじゃなかったから。」
『っ……』
彼女の緊張が少しだけ解けたように見えた。

「それより。僕のシャツ…着てるのは、一人で心細かった…から?」
優しく返事を促せば、少しだけためらいがちにコクリと頷いて、潤んだ瞳で僕を見つめ返す。
ああ…好きな女の子にそんな可愛い事されたら、男がどうなるのか、果たして彼女はわかってるんだろうか。
あどけない顔をして、やってくれる事は小悪魔レベルのそれだから困る。
しかも、普段は愛情表現の控えめな彼女のアピールなんだから、威力は倍増だ。

『ご、ごめんなさい…』
「?…どうして謝るの?僕は嬉しいんだけどな」

だって、その行動が導きだすのは、甘くてくすぐったい理由でしかないじゃない?
という自惚れは密やかに呟いて、にっこりと微笑んでみせる。

その言葉に安心したのか、おずおずとブランケットが下ろされて、僕のシャツの色があらわになってゆく。
見慣れた自分の服なのに、彼女が着ているだけですごく特別なコスチュームに思えるなんて初めて知る事だったから。つい、まじまじと見つめてしまった。
肩幅も袖もブカブカ、ボタンに至っては2番目まで外されていて、胸元が見えそうだ。
無防備で、それでいて挑発的で…
一体、僕をどこまで煽れば気が済むのかと聞きたくもなる。

『…やっぱり、着替えて…きます、っ…』
遠慮のない視線に耐えかねたのか、真っ赤な顔のまま、緩慢な動作で立ち上がった彼女。
そんな君を捕まえる事など、例え指一本だったとしても容易いんだから。
とすん、と落ちる様に、僕はその柔らかな身体の重みを受け取った。

ふわりと、香る彼女の匂い。離れれば恋しく想う、その温もり。
もしかして、彼女も同じように感じてくれているのだろうか。
『イッキさ…ん』
「…ねぇ、自分がどれだけ可愛い事してるか自覚して?」
『、え…』

抱きしめている身体から、熱が伝わってきて、自分の体温までどんどん上がってるような気がする。
いや、これは気のせいなんかじゃない。
首筋に顔をうずめると、彼女の身体から力が抜けていくのがわかった。
僕の腰にしがみつくように自らを支える彼女を、ゆっくりとベッドに座らせながら囁く。
「無理させたく、なるでしょ…?」

わざとらしい程、身体を震わせて応えるその背中を押し倒して、今すぐキスしたい。
そんな事、思うよりも早く、衝動に動かされていた。

『んんっ…イッ…キさ…か、ぜ…』
「うつっちゃう?…いいよ、うつしても。風邪は人にうつすと治るっておまじないもあるくらいだしね」
都合の良い風説にかこつけてみるけれど、君とキスが出来るなら、風邪なんて些末な事だよ?
そんな想いを込めて見つめれば、彼女の瞳はやっと素直になるから。

「一人にして…寂しい思いさせて、ごめん」
『…イッキさん、ずるいです…』
ふるふると首を振りながらも、唇を尖らせて呟く。

強引に口づけながら、しおらしく謝るなんて、確かに僕もズルいかも知れないね?、でも…。
「…あのね、それはこっちの台詞だよ」
まったく。これだけ僕を煽っておいて、無意識だというのだから、それこそ”ずるい”なんてもんじゃないでしょう。
内心そう反論しながら、再びその口をふさいでやると、彼女の睫は切なげに瞬いた。

『…ずるくて…いいです』

太陽が沈みきるタイミングで、ベッドがぎしりと軋んだ。
ふたりを包む熱、ふたりから生まれる新たな熱が、”君”と”僕”の境界線を溶かしてゆく。
どんな薬を飲んだって、この熱は下がる事を知らなくて。
浮かされるまま、冒されるまま、いつまでも溺れていられるなら…、それは、きっとふたりの本望だから。

 

 

                                            update/20121022

 

 

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