こつん、と。
小さく窓を叩く音に気付いたのは、客もまばらな閉店間際の事。
店内には控えめだけどBGMも流れているのに、その音に気付けたのは偶然だった。

思わず、心の中で『あっ…』と呟いた時、ちょうどすれ違い様に聴こえたのはイッキさんの声。

「雨、降ってきちゃったみたいだね。」

内容は至って普通の台詞だが、そのタイミングの良さと、あまりに近かった距離に心臓が跳ねる。
わざわざ、耳元で囁かなくてもいいじゃない…!!
私は、抗議の意を込めた視線でイッキさんの後ろ姿を見送りながらも、耳たぶがじんわり熱くなるのを感じていた。


温度を確かめるように、頬の横まで伸ばした手を途中で引っ込める。
負け惜しみのように、髪の乱れを直す仕草でごまかした。


いちいち動揺していたら、キリがないのはわかっているんだ。
こうやって、仕事中に人をからかうのは、彼にとって息を吸うように自然な事なのだから。

私のドキドキだって、きっと、条件反射に決まってる。

そう思い直して、目の前の仕事に意識を戻す。
傘持ってきてなかったな、とか今日は洗濯物は干してなかったよね、とか、
現実的な問題が慌ただしく浮かんでは消えていく。


窓を叩く音がだんだん強くなり、店内も突然の雨にざわつき始めた。
雨粒の大きさからするに、結構激しく降っていそうだ。

会計を終えた客の送り出しついでに外の様子を伺うと、細かい霧のような雨が風に乗って頬を濡らす。
この降り方だと、傘無しで飛び出せば、全身びしょぬれになる事は間違いない。

お店の傘立てにビニール傘のストックがあるけど、これから帰る客全員に渡してギリギリ足りるか…といった所だ。
もうすぐ梅雨の時期なんだから、折り畳み傘の一つくらい、鞄に入れておくべきだったと悔いても今更。

空を仰いでどこかに希望の光を探したところで、流れる厚くて黒い雲は、
これが通り雨では無い事を示すだけだった。


きっとこうやって、小さな不運を嘆く声がそこかしこで生まれているに違いない。
そう考えて、ふと思い出されたのは先程のこと。

雨が降ってきたというのに何故かイッキさんは嬉しそうに見えた。
もしかして、雨が好きなのかな…。
雨にはしゃぐイッキさん。
想像したら、あまりにもイメージからかけ離れていて、吹き出しそうになる。



フロアに戻ると、ほとんどの客が会計待ちの状態で、私は慌ててレジに走った。
倉庫から抱えてきたストックの傘を配ると、思った通り全部捌けてしまい、最後の望みはあっけなく絶たれてしまう。
ドアを開ける度に入り込んでくる湿気が、今はただ疎ましい。

招かれざる雨雲のせいもあって、ラストオーダーの注文も無く、いつもよりも少し早く店閉めの作業が始まった。
今日はお休みを取っている店長の代わりに、イッキさんが鍵締めを任されているみたいだ。


誰もいなくなったフロアで、軽快なジャズに代わり、静かな雨の音が細やかなリズムを刻んでいる。
テーブルの上に椅子を乗せていくという最後の仕事に取りかかりながら、
私は帰り道の事を考えて憂鬱になっていた。

おろしてからまだ日の浅いパンプスも、走って帰る事になれば汚れてしまうだろう。
だけど、この雨の中急ぎもせず歩いて濡れれば風邪を引きそうだし…。
一番近いコンビニで傘を買うとしても、結構な距離があるし家とは反対方向だ。

どうしたものか…。
思わず思案に暮れていると、ふっと腕にかかっていた負荷が消えた。

驚きながら見上げると、イッキさんが私の持つ椅子の柄を掴んでいる。

ぼけっとしていた事には触れずに、私が持っていた重い荷を、ただ当然のように軽々と引き受けてくれる。
こうやってフォローしてくれる優しさも、人をからかう事と同列に自然とやってのけるので、
いつもどんな顔でお礼を言えば良いのかわからない。

複雑な心境を隠せないまま、小さく礼を返し、再び黙々と作業に没頭する。
単調な音色が、時間の感覚を奪っていくようだった。



窓ガラスを滑る水滴の軌跡を目で追っていた私に、イッキさんはグローブを外しながら問いかける。
「雨、しばらく止みそうにないね。傘、あるの?」

また、だ。
イッキさんは本当にタイミングが良い。
私は正直に首を振る。

すると、
「僕、傘持ってるんだ。」なんて言いながらにっこりと微笑むから、その後に続く言葉はもう予想出来たのだけど。

予知、の次に働くのは防衛本能。

『用意がいいんですね…。雨の予報、出てたんですか?』
あえて話題を逸らそうとする私に、イッキさんは面白がるように目を細める。

「つれないね、まぁ悪い気分じゃないけど。」

悪い気分、どころか至極満足げなのは気のせいだろうか。
撥ね除けるように拒絶しても、のらりくらりと躱しても、
彼の興味をかき立ててしまう悪循環には、とっくに気付いているものの、有効な防御策は未だ見つけられずにいる。


「この雨の中、ずぶ濡れになるのを分かってて手を貸さないのは、僕のポリシーに反するっていうか。」
「君が風邪なんて引いちゃって、あとでワカさんに知れたら、僕、基礎トレじゃすまないだろうなぁ。」
「いいでしょ、僕が送りたいって言ってるんだから。君は濡れないで帰れるし、お互い利害が一致してるじゃない。」


そんな風に畳み掛けられたら、断る術はなかった。


『じゃぁ、お言葉に甘えます…』
一瞬の沈黙の後、そんな風に降参したなら。
子供のように無邪気に喜ぶイッキさんが、さっき浮かんだ勝手なイメージと重なって、
私は思い出し笑いしそうになるのを飲み込むのに精一杯だった。

上手い事丸め込まれたのかも知れないけど、パンプスが泥だらけになる事態が回避されたと思えば、
素直に喜ぶべき所だろう。
でも、相手がイッキさんなら話は別だ。
新たな危険を招き寄せた気がしないでもない。

 

左にイッキさん、となりには縮こまる私。
男物の傘は大きいとはいえ、大人二人が入るにはギリギリで、
やはり濡れないようにするには、身体を密着させる他ない。

降り始めよりは弱まったように思うけど、傘に跳ね返る断続的な音が、会話を始めるきっかけを失わせている。
一緒に帰るのだから、きっとイッキさんは道中に何か仕掛けてくるのではないかと、内心訝しんでいたのだが、
今の所そんな様子は無くて。
むしろ、さっきまでの勢いは何処へいったのかと思う程しおらしい。


無言の空間というのも、居心地が悪くてそわそわしてしまう。
彼のペースに巻き込まれたい訳ではないが、二人きりのこの状況に、意識していないといったら嘘になるだろう。

どぎまぎしながらも沈黙に耐えきれず、私は必死に会話の糸口を探した。


『雨…、好きなんですか…?』
頭の片隅にあった小さな興味を、思い出しついでに投げかける。


「どうして?」
きょとんとした顔で見下ろされて、私は慌てて視線をそらした。

『なんだか、雨降ってきたねって言ってた時、ちょっと嬉しそうに見えたので…』

言いながら、まるで子供みたいだと揶揄しているようで、
年上相手に失礼だったかも知れないと今更に気付き、恥ずかしくなる。

「…ああ、あれはね、もしかしたら君と一緒に帰れるかも知れないって思ったからだよ。
これは神様がくれたチャンスかも知れない、ってね。」

全く気にしない様子でおどけるイッキさんにホッとしながらも、相変わらずの調子には返す言葉も無い。


「…というのも、あるけどね。うん、雨は好きかな。」
呆れて二の句を継げないでいる私への言い訳を装いつつも、少しだけトーンを変えてこちらを見つめる瞳は穏やかだ。

「ほら、僕の目の事、知ってるでしょ?傘を差してるとね、ちょうどほら、目の所が隠れるじゃない?
…だから、雨の日に傘を差して歩くのが好きなんだ。誰にも邪魔されないしね。」


『…』

返事に困った私は、何も言えず黙り込む。
言葉を探してみるが、安易な相槌は打てなかった。
そんな理由で、雨を望む人は、きっと彼以外にはいないのだろうから。


ひっそりと、濡れたアスファルトや新緑の香りの混ざる、埃っぽい独特なにおいを吸い込むと、
つめたい空気が喉を冷やしていく。


今、イッキさんはどんな顔をしているのだろう。
好きだと言いつつも、心底楽しいという風には感じられない。
むしろ、僅かながら寂しさが滲んでいるように聴こえたのは何故なの。


見上げないと解らない彼の表情、
だけどそれに触れてはいけないような気もして、私はどうしようもなく歯がゆさを感じていた。



「しかし、傘を持ってると君と手を繋げないのが残念だな。」
『…何で手を繋ぐ必要があるんですか。』

そんな軽口に応酬しつつも、この帰り道の間に気付いてしまった事がいくつもある。


水たまりを避けつつ、ゆっくりと歩を進める自分のスピードに、さりげなく合わせてくれている事。
私の方に傘を傾けるばかりに、彼の左肩が濡れてしまっている事。
雨が好き、なんて言いながらその理由に見え隠れする苦悩の片鱗。

もしかしたら、もしかしたら。
私は間違っているの?


大きな水たまりを迂回して進む。
そこに浮かぶ幾つもの波紋は、本来映るべき景色をぐにゃりと歪めている。
雨が止んだらどんな画が見えるんだろう。


確かに、最初の印象は最悪だった。
だけど、最低な筈の彼とどうして一つの傘の下で身を寄せ合っているのかというと。
知っていく程、彼についての認識が私の中で確実に変わりつつあるから。

恋人がいるのにも拘らず、来るもの拒まずどころか自分から好意をばらまくような姿勢を、
無思慮で軽薄だと突き放す事はいくらでもできる。

だけど、だけど…。
私は、本当のイッキさんを、知りたいんだ。
その感情をどう形容していいのかは、わからないけど。



いつの間にか自宅のマンション前に着いていて、緊張から解き放たれると同時に、
改めて正面からお礼を伝える。

濡れてしまっている肩を思い出して、慌ててタオルを差し出すと、イッキさんは少し意外そうな表情を見せた。
『…あの、どうかしましたか?』
尋ねると、タオルを受け取りながら苦笑いされる。

「いや、傘を持ってない君につけ込んで、ちょっと強引が過ぎたかなって。
実は内心怒ってるんじゃないかなって思ったから。ほら、僕、君に嫌われてるしね。」

そういえば、とでも言うように付け加えられた一言に、少し胸が痛い。

『正直、イッキさんの事、理解できないって思ってました。
…けど今は…もう少し知っていかないと解らない事もあるんじゃないかって、思うんです。』

思い切ってそう伝えると、彼は面食らったような顔で静止した後、一瞬とても真剣な目をした。
今まで見た事の無い色に、不覚にも射抜かれそうになる。

でも次の瞬間には、困ったり怒ったりする私を見て楽しむ、いつものイッキさんに戻るのだ。
「君の事、本気で好きになってもいいかな?」
なんて言いながら。

それを冷たくあしらいつつも、一瞬だけ見えた彼の瞳の奥が残像のように頭から離れない。



遠のいてゆく傘のシルエットを小さくなるまで見送ると、私はそっと目を閉じた。
聴こえるのは、しとしと降り続ける水滴の調べだけ。

心の中で一つずつ増えていく新しいパズルのピースを浮かべてみる。
全てを集めて繋ぎ合わせた時、そこには何が見えるんだろう。


雨が降り続ける限り、水面に映るはずの彼の姿を、未だ誰も見た事は無いのかも知れない。

                                            update/2012605

 

 

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<後書き>初めてのイッキ主。お誕生日には間に合わなかった…!!