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〜彼女の熱〜

 

ベッドから出たくない。
そう思うのは毎日の事だけど、なんだか今朝はいつも以上に強く思う。
窓から差し込む光でさえ、太刀打ち出来ないほどに眠気が体を支配している。

寝返りを打つと、隣に眠るイッキさんの腕にぶつかって。だけど知ってる、それくらいじゃ彼は起きないって事。
彼と迎える朝も、いつしか肌に馴染み始めて、お互いのクセや習慣にも慣れてきているから。
ああ、早く朝食の準備をしなくちゃ…
まだ完全に働かない頭をどうにか回転させようと試みるけど、頭どころか手も足も思うように動いてくれない。

そのうち目覚まし時計代わりの携帯電話が枕の下で震え始めて、イッキさんが薄く目を開けた。

「…ん…おはよ…?」

いつもならイッキさんが起きる頃には、軽くメイクもすませてキッチンからコーヒーのいい香りが漂ってきていて、私はにっこり笑顔で『おはようございます、イッキさん』なんて余裕しゃくしゃくで朝を迎えているはずなのに。

マナーモードのまま震えている携帯は、とっくに起きなきゃいけない時間を過ぎてスヌーズ機能でしつこく鳴り続けているだけなのだった。
つまり、本当なら私がイッキさんを起こさなければいけない時間。

それに気付いてもまだぼんやりしている私は、どこかおかしいのだろうか。
昨日はいつもより早くベッドに入ったし、寝不足はないと思う。
もしかして金縛り…?とも思ったけれど、全く身動き出来ない訳じゃないから可能性としては限りなく低い。

「ふぁ…朝?…あれ、今日は珍しいね」
軽くあくびをしつつも、ようやく起き上がったイッキさんは
「たまには二人一緒に起きる朝もいいね?」
なんて言いながら手を伸ばし私の髪を撫でる。
半分寝ぼけている時のイッキさんは、普段より甘えんぼになって可愛い。
だから忙しい朝の時間でもつい相手をしてしまうのだけど、残念ながら今日はもうそんな時間は残されていないのだ。

さて、今度こそ起きなくちゃと気合いを入れた途端、撫でられていた手が、ふと止まり、急に表情を曇らせるイッキさんを、私はどことなく歪む視界の中見上げていた。

「?…君、熱あるじゃない」
そこには寝ぼけ眼のイッキさんはいなくて、ちょっと怒ったような焦ったような顔。
熱がある、という言葉が一呼吸遅れて頭に響くけれど、そんな自覚はない。
ただ、重くて怠い、そんな感覚がまとわりついているって事はわかるけれど。

「昨日いつもより体温高かったからちょっと心配だったんだけど…、とりあえず風邪薬…の前に体温計だよね、それと…水!…ちょっと待ってて」
なんでイッキさんが私の平熱を把握しているんだろう、そんな疑問が一瞬浮かんだがそれよりも、いつもなら起床してもしばらくぼーっとしている危なっかしいイッキさんが、完全に覚醒してきびきびと動き回っている事に、私は少し感動してしまった。

無理矢理に体を起こすと、少し関節が痛む気がする。
やっぱり風邪を引いてしまったんだろうか。

「とりあえず、解熱剤飲んで。これ二錠ね」
『…ありがとうございます』
イッキさんが持ってきてくれた常備薬を、冷たい水で流し込むと、少しだけ頭がクリアになった。

『イッキさんごめんなさい、今朝は朝ご飯作れなくて…』
洗面台で歯を磨いている後ろ姿に謝りつつ、時計を見るといつも家を出ている時間まで20分しかない。
朝ご飯が食べれないどころか、メイクをする時間もないじゃない…!
とにかく、なるべく急いで支度しなきゃとクロゼットの扉を開ける私を、歯磨きを終えたイッキさんが驚いたように制す。

「ちょっと君、まさか学校行こうだなんて考えてないよね?」
『え…あの…大丈夫です、微熱くらいで学校休めませんからっ…』
そう言うと、みるみる険しくなるイッキさん。
「…熱は?計ったの?」

『計ってないですけど…』
普段見慣れない分、そんな表情は直視出来る訳なくて、私は視線を泳がせるしかない。
そんな私に彼は、はぁ、と呆れたように一つため息を落とす。
「そんなふらついた身体のままで送り出せる訳ないでしょ、…お願いだから今日は休んで」

そんな風に、小さな子供に言い聞かせるみたいに優しく諭されたら、黙って頷くしかなくて。
いつのまにか、私は再びブランケットの中へと舞い戻っていたのだ。

 

ピピピ、という電子音が示す数字は37.7℃。
思っていたより、熱は高くて、自覚してしまうと余計に具合が悪くなったように感じてしまう。
看病の為に自分も休むと言いだしたイッキさんをどうにか送り出し、大人しくベッドの中で身体を丸める。
今日はどうしても欠席できない講義があると言っていたけど、ちゃんと間に合ったかな…

そのうちに薬が効いてきたのだろうか、瞼が重くなり、いつのまにか私は眠っていてしまった。

次に目を開けた時は口の中がカラカラで、思わずベッド脇にあったグラスの中、僅か残った水に手を伸ばした。
体内の水分が全て汗になってしまったみたいな、肌と布がくっついたような感覚が気持ち悪くて。
それに気付いてしまったら、再び眠るにも落ち着けなくて私は仕方なくベッドを降りた。
やっぱり身体に力が入らなくて、素直にイッキさんに従っておいたのは正解だったと思いながら。
きっとあのまま大学に行っても、授業どころじゃなかっただろう。
イッキさんが帰ってきたらお礼を言わなきゃ、と心に留めておく。

まだ外から降り注ぐ陽の光で事足りる昼下がり。
こんな時間に一人で過ごすのは、一人暮らしをしていた時以来だろうか。
ここは元々イッキさんの部屋で、私はやっとこの天井にも慣れてきた所で。

ぱたん、と冷蔵庫の扉が閉まる音がやけに大きく響いた気がした。
それに気付いて部屋を見渡せば、ぽっかりと、がらんどうな空間がただ横たわっているように思えてくる。
こんなに広かったかな、この部屋…
ぼんやりした頭のまま、パジャマのボタンに手をかけた。
イッキさんと暮らすようになってからは、こんな風に下着姿で部屋をうろつく事など出来ないから、やけにドキドキしながらバスルームへ向かう。

脱いだ衣服を全て洗濯機に放りこんでしまってから、はたと気付いた。
もしかしたら替えのパジャマが無いかも知れない。
何日か続いた雨の所為で、洗濯物が溜まっていた事を思い出す。
とりあえず洗ってあるだけの衣服の山からパジャマの上下を取り出し浴室の物干に吊るしてみたのだけど。
夜までには乾いたとしても、今着るものが無いのが一番の問題で。

発汗の後から襲ってくる、場違いな程の冷たさは確認するまでもなく風邪の症状だ。
薄い布切れしか付けていない身体をぶるりと震わせて目を走らせた先には、今朝脱ぎ捨てられたばかりのシャツがチェアに引っかかっていた。
それがイッキさんのものだって事がわからない程、ボーッとしていた訳ではないんだけど、気がついたら私はその大きなシャツにくるまれていて。
肌をすべるネルの感触が気持ち良くて、自分のパジャマが乾くその間だけ…と言い訳するように袖に手を通す。
指の先まで隠れるくらいのサイズは太ももくらいまでも覆ってくれたから、シャツワンピースの感覚のままベッドに潜り込んだ。

イッキさんの匂いに包み込まれて、嬉しいような寂しいような気持ちがごちゃ混ぜになる。
切なさが一瞬で身体を駆け巡っていく。
ふいに、後ろから抱きすくめられ首筋に鼻先を埋められた記憶がよみがえる。
もちろんその先の事も思い出されて、腰の辺りがぞくぞくとしてしまう。

おかしいよね、一緒に暮らしているのに。
今朝、別れたばかりなのに。

だから、今すぐに逢いたい、キスして欲しいなんて思ってしまうのも、身体が火照るように熱いのも、きっと風邪のせいなんだ。

そんな事を言い聞かせているうちに、私はまた深い眠りの底に落ちていった。

 

 

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